こころと時間
気づけば、時間の使い方が変わっていました。
走り続けていた頃は、立ち止まる余裕なんてありませんでした。
誰かの予定を優先するのが当たり前で、それを疑うこともなかったのです。
でも、ある日。急に時間が空きます。
それは喪失や終わりではなく、役割の形が変わった合図だったのかもしれません。
そんな「時間のフェーズが変わる瞬間」と、その中で揺れる心の動きを、静かに言葉にしています。
自分の人生の主役は、自分。
忘れていた時間を、少しずつ取り戻していくために。
急に時間が空いた世代へ。夢を持つのは、恥ずかしくない
ある日、気づきました。予定がない日が増えていることに。
仕事は続いている。生活も、ちゃんと回っている。
それなのに、以前のような「時間に追われる感覚」がありません。
予定を開いても、真っ白な週末がある。
誰かに呼ばれることもなく、誰かを送り迎えすることもない。
静かで、穏やかで、少しだけ——寂しい。
子育てと仕事に追われていた頃は、時間は常に足りませんでした。
朝から夜まで、誰かの予定を優先して、迷う暇もなく走っていました。
送迎、部活の試合、受験、反抗期。
そして仕事の締め切り、家事、親の通院。
立ち止まることなんて考えなかった。
走ることが役割で、それが自分だと思っていました。
「自分の時間がほしい」そう何度も思っていたはずなのに。
だから、その時間がふっと訪れたとき、最初に来たのは自由ではありませんでした。
何をしていいかわからない、という戸惑い。
空いた時間を前に、落ち着かない気持ちだけが残りました。
何かしなきゃいけない気がするのに、何をすればいいのかは思いつかない。
友人と会おうにも、相手にも予定がある。
趣味を探そうにも、何が好きだったかさえ、曖昧になっている。
ある夜、ふと「私、何が好きだったんだっけ?」と考えてしまった。学生時代はファッションや音楽が好きだった気がする。でも具体的に何を聴いていたのか、なぜ好きだったのか、記憶が薄れている。そんな自分に、少しだけ驚いた。
この感覚は、この世代ならきっと多くの人が一度は味わっていると思います。
急にできた余白時間。
それはご褒美みたいでいて、少しだけ不安を連れてきます。
周りを見渡せば、すでに新しいことを始めている人もいる。
資格を取った人、習い事を始めた人、旅行や趣味に没頭している人。
SNSには充実した日々が並んでいて、それを眺めながら焦りを感じることもあります。
「私も何かしなきゃ」そう思うけれど、何をすればいいのかわからない。
友人が「陶芸教室に通い始めた」とSNSに投稿していた。楽しそうな作品の写真を見ながら、「いいな」と思う反面、「私には何もない」という気持ちが顔を出す。比べても意味がないとわかっているのに。
やりたいことが見つからないまま、ただ時間が過ぎていく感じがして、それが少しだけ、もどかしい。
でも最近、思います。これは終わりではありません。
もう走らなくていいだけで、止まっていいだけで、選び直していい時間なのだと。
これまでは、誰かのために時間を使ってきた。
それは誇らしいことだったし、後悔もありません。
けれど今、初めて「自分のための時間」が手に入りました。
それを焦って埋める必要はないのかもしれません。
余白は、余白のままでいい。
そこにゆっくり向き合って、自分が本当に何を望んでいるのか、感じ取る時間があってもいい。
腐るには、まだ早すぎる。
人生を片づけるには、早すぎる。
この先の人生が、あと10年なのか、20年なのか、30年なのか。
それは誰にもわかりません。
だったら、その時間を「もう遅い」で諦めるのは、もったいない。
夢という言葉が大げさなら、「もう一度、やってみたいこと」でもいい。
若い頃に諦めたこと。ずっと気になっていたこと。いつか挑戦したいと思っていたこと。
結果が出なくてもいい。人に言わなくてもいい。誰かに認められなくてもいい。
自分の中で、少し先を思い描くだけでいい。
それは仕事かもしれないし、創作かもしれないし、学びかもしれない。
あるいは、もっとささやかなこと。
丁寧に料理をすること。散歩の途中で写真を撮ること。好きな本をゆっくり読むこと。朝のコーヒーを、急がずに味わうこと。
何でもいい。
自分が「これ、好きかも」と思えることがあれば、それで十分だと思います。
夢を持つのは、恥ずかしいことではありません。
この年齢だからこそ、ようやく自分のために考えられるのだと思います。
若い頃の夢は、他人の期待や、社会の正解に引っ張られていたかもしれません。
でも今は違う。
誰に遠慮することもなく、誰に証明することもなく、純粋に「自分がやりたいこと」を選べます。
急に時間が空いた今を、無理に埋めなくていい。
余白のまま、しばらく置いておいてもいい。
焦らず、ゆっくりと。
そこから何か浮かんできたら、それで十分です。
そしてもし、何も浮かんでこなくても、それはそれでいい。
ただ静かに過ごすことだって、立派な選択です。
私自身、まだ答えは出ていません。
何をしたいのか、何ができるのか、はっきりとは見えていない。
でも、この余白を怖がらなくなりました。むしろ、少しだけ楽しみになってきた。
「これから、どうしようかな」そう思える今が、悪くないと感じています。
急に時間が空いたあなたへ。
一緒に、ゆっくり歩いていきましょう。
焦らず、比べず、自分のペースで。
それでいいのだと思います。
手が離れても、終わっていないもの
「空の巣」という言葉には、どこか終わりの響きがあります。
子育てが終わった。役割を終えた。あとは静かに余生へ。
そんな言い方に、私はずっと違和感がありました。
実際に起きたのは、終わりではなく変化でした。
送迎はなくなった。試合の予定も、受験の緊張も消えた。
生活から「子ども基準の予定」がごそっと抜け落ちた。
でも、親としての役割が消えたわけではありません。
関わり方が変わっただけです。
先回りして決めることは減り、見守る時間が増えた。
口出しする代わりに、信じて待つことが増えた。
量は減ったけれど、質はむしろ深くなった気がします。
子どもから久しぶりにLINEが来た。「ちょっと相談したいことがある」って。以前なら「こうしたら?」とすぐ答えを出していたけど、今回は最後まで聞いてから「あなたはどうしたい?」と返した。少し間があって、「自分で決めてみる」と返事が来た。距離ができた分、信頼が深まった気がした。
戸惑ったのは、愛情ではありません。時間の使い方でした。
予定の主語が「子ども」から「自分」に戻ったとき、何を基準に動けばいいのか、一瞬わからなくなった。
忙しかったはずなのに、暇になったわけでもない。
自由になったはずなのに、心が追いつかない。
何をしていいかわからない日もありました。
テレビをつけて、消して。スマホを見て、また置いて。
ある休日の午後、やることがなくて家の中をうろうろしていた。掃除も終わり、夕飯の準備にはまだ早い。ふと本棚を見たら、昔買ったまま読んでいなかった小説があった。それを手に取って、久しぶりにソファに座って読み始めた。たったそれだけのことなのに、なんだか懐かしい気持ちになった。
時間があるのに、自分のために使う感覚を忘れていました。
でも最近は、こう思います。
この時間は空っぽではない。戻ってきた時間なのだと。
自分の人生の主役は、自分。
それを忘れていた時間が、長かっただけ。
役割が軽くなった分、自分の番が少し戻ってきた。
親をやめたわけではない。自分を取り戻し始めただけです。
空いた時間を、急いで何かで埋める必要はありません。
思い出す時間。立ち止まる時間。これからを考える時間。
最近、朝の散歩を始めた。特に目的地があるわけではない。ただ歩いて、季節を感じて、時々写真を撮る。それだけ。でもこの「それだけ」が、今の自分にはちょうどいい。
忘れていた時間を、少しずつ取り戻していけばいい。
それは終わりではありません。次の形に移っただけです。
手が離れても、終わっていないもの。
それは愛情であり、つながりであり、そして——自分自身の人生です。
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